2009年11月24日火曜日

substance analysis (SA:本質構造分析)

substance analysis (SA:本質構造分析)

FAやインタビュー発言録などの言語叙述情報(いわゆる質的情報)の、個々の断片について本質的な要約化作業を行い、それらを構造が見えるように布置をし、構造化を行い、中区分的に、及び大区分的により、集約、ないしは展開させた主題設定を行ってゆく。

この分析の留意点は
課題解決方法の立案を行う当事者によって行われるべきである。なぜならば、問題解決につながるという意志を持って、それらの言語叙述情報に本質的な要素化作業を行う必要があるからだ。分析を専門とする外部の調査機関や他部門の分析スタッフが行うことは最適とは言えない。
該当する市場分野の日常言語(ネイティブ言語)によって叙述されたものを、その日常言語によって集約化、構造化表記を行ってゆかなくてはならない。他国市場における他国言語はそのままの言語で行われるべきである。翻訳が不可欠な場合は、言語併記でかつ慎重に行われるべきである。


SAとは、生活者やユーザー、あるいは様々なステークホルダーの意識・認識の表出を整理しながら、同時に主体としてのこちら側、すなわち分析者(企業)とのダイナミズムを組み立て、構造化してゆくという行為であり、マーケティングそのものである。
また、常に「本質は何か」という探究心を持って臨むべきものである。SA:substance(本質)analysis(分析)と命名した背景はそこにある。

近い方法的概念は、KJ法で知られる川喜多次郎の内容分析の方法論である。それ以外の方法論を挙げてみる。

4ステップコーディングによる質的データ分析手法SCATの提案 http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/dspace/handle/2237/9652 名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要(教育科学). v.54, n.2, 2008, p.27-44 "SCAT" A Qualitative Data Analysis Method by Four-Step Coding : Easy Startable and Small Scale Data-Applicable Process of Theorization (論文)PDFhttp://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/dspace/handle/2237/9652

2009年3月14日土曜日

書誌研究(参考文献)

  1. 木下康仁(2007) ライブ講義M-GTA 実践的質的研究法 2007年4月 弘文堂
  2. 林美和子・肥田安弥女(2008) 「定性調査」が分かる本-定性調査の実務に関わるすべての人たちに向けて 同文館 
  3. 大橋英寿・やまだようこ(2004) 質的心理学の来し方と行方-日本質的心理学会設立集会「対談」 2005年 質的心理学研究 第4号 日本質的心理学会
  4. 大谷 尚・無藤 隆・サトウタツヤ(2004年) 質的心理学が切り開く地平-日本質的心理学会設立集会「シンポジュウム」 質的心理学研究 第4号 日本質的心理学会
  5. 無藤 隆(2004年) 質的研究の3つのジレンマ-「再詳述法」の提案による質的心理学の可能性 質的心理学研究 第4号 日本質的心理学会
  6. 西條剛央(2003年) 質的研究論文執筆の一般技法-関心相関的構成法 質的心理学研究 第4号 日本質的心理学会
  7. 無藤 隆・やまだようこ・南 博文・麻生 武・さとうたつや ワードマップ 質的心理学 -創造的に活用するコツ 新曜社

2009年3月4日水曜日

主旨

「質的研究と戦略立案」という仮題ですが、様々な定性データの分析から要素を構造化し課題や機会に繋がる戦略を構築することの理論的なフレームワークを作り、世に問うて行きたいということです。簡単に言えば諸兄や私がやってきたコンセプトワークを作法化したいということです。心理学でも検定など量的な実証性ではなく「質的心理学研究」という領域が最近になって認められ「質的心理学会」という学会もできています。しかし、これは私達の経験からも言えることなのですが、量的研究はルールと理論にしたがえば、また、十分な予算の後ろ盾があれば、経験はあまり問われません。質的研究はそうはいきませんね。同じ10個の生活者のある商品に対する評価の言葉を記したカードを前にして、分析者の経験(能力)の有無でそこから導き出せる宇宙はまったく異なったものになるはずです。メーカークライアントも社内のこれができる人間がほとんどいななってきていることに大きな危惧を抱き始めていいます。(そのような企業は少ないかもしれませんが)

背景としての魯迅との出会い
序言にかえて ~ 魯迅とオリンピックと市場

魯迅の短編小説、「社劇(奉納芝居)」の原文に接する機会があった。魯迅の少年時代、母親の里で、近隣の子供たちと過ごした村祭り見物の舟行きの情景が生き生きと描かれている。中国語は、情景を幻想的なパノラマとして、躍動感と心の高揚をもって描くことができる言語なのだとその時感じた。そのこともあってか、北京オリンピックの開会式については、「過剰」などいくつかの批判があるが、私は、中国語の文化として必然のように思えてならない。その圧倒的な表現力に感服するし、これを後世の中国の子供たちにどのように語り聞かせるのか、大いに興味のあるところである。
市場は個々の「人」という主体によって構成されている。主体にとっては自分以外はすべて他者か環境かのどちらかである。日本という市場は個々の主体が日本語をネイティブ言語として他者と環境を認識し、関係を取り結んでいる地域である。中国はもちろん中国語である。
日本という市場は1億2千の主体の日本語ネイティブによる他者認識のダイナミズムである。中国は13億の主体によるダイナミズムだ。
いまさらグローバリズムに難癖をつけようとしているのではない。取り交わされる言葉の一つ一つを大事にし、そこにあるダイナミズムを浮かび上がらせようではないか。日本という市場で。中国で。そしてもっと多くの国と地域で。感動は生み出すものではなく、そこに在るものだからだ。もっと楽しくなるぞ。きっと。(当文章はMCEI百人百語2009に投稿したもの)