2009年3月4日水曜日

主旨

「質的研究と戦略立案」という仮題ですが、様々な定性データの分析から要素を構造化し課題や機会に繋がる戦略を構築することの理論的なフレームワークを作り、世に問うて行きたいということです。簡単に言えば諸兄や私がやってきたコンセプトワークを作法化したいということです。心理学でも検定など量的な実証性ではなく「質的心理学研究」という領域が最近になって認められ「質的心理学会」という学会もできています。しかし、これは私達の経験からも言えることなのですが、量的研究はルールと理論にしたがえば、また、十分な予算の後ろ盾があれば、経験はあまり問われません。質的研究はそうはいきませんね。同じ10個の生活者のある商品に対する評価の言葉を記したカードを前にして、分析者の経験(能力)の有無でそこから導き出せる宇宙はまったく異なったものになるはずです。メーカークライアントも社内のこれができる人間がほとんどいななってきていることに大きな危惧を抱き始めていいます。(そのような企業は少ないかもしれませんが)

背景としての魯迅との出会い
序言にかえて ~ 魯迅とオリンピックと市場

魯迅の短編小説、「社劇(奉納芝居)」の原文に接する機会があった。魯迅の少年時代、母親の里で、近隣の子供たちと過ごした村祭り見物の舟行きの情景が生き生きと描かれている。中国語は、情景を幻想的なパノラマとして、躍動感と心の高揚をもって描くことができる言語なのだとその時感じた。そのこともあってか、北京オリンピックの開会式については、「過剰」などいくつかの批判があるが、私は、中国語の文化として必然のように思えてならない。その圧倒的な表現力に感服するし、これを後世の中国の子供たちにどのように語り聞かせるのか、大いに興味のあるところである。
市場は個々の「人」という主体によって構成されている。主体にとっては自分以外はすべて他者か環境かのどちらかである。日本という市場は個々の主体が日本語をネイティブ言語として他者と環境を認識し、関係を取り結んでいる地域である。中国はもちろん中国語である。
日本という市場は1億2千の主体の日本語ネイティブによる他者認識のダイナミズムである。中国は13億の主体によるダイナミズムだ。
いまさらグローバリズムに難癖をつけようとしているのではない。取り交わされる言葉の一つ一つを大事にし、そこにあるダイナミズムを浮かび上がらせようではないか。日本という市場で。中国で。そしてもっと多くの国と地域で。感動は生み出すものではなく、そこに在るものだからだ。もっと楽しくなるぞ。きっと。(当文章はMCEI百人百語2009に投稿したもの)

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